greenplanet’s blog

グリーンプラネットは、豊かな森の再生を手がける『里山再生』のボランティアです。

          令和4年5月21日天覧山観察会

 

 あいにく、この日は一日中曇りでした。天覧山飯能市民の愛する場所であり、埼玉県では一番最初に指定された名勝です。さっそく駅を下りてそこに向かうことにしました。石畳のような道路を歩いて行くと、所々に明治時代にできたような古い建物があります。昔に戻ったようで落ち着きを感じる。通りを通過すると観音寺という高麗郡33ヵ所の10番札所で、秩父、坂東の霊場の本尊を合わせた百観音が安置されている寺に出くわす。さらにいくつかの神社を通り過ぎて天覧山のふもとにあるこの地の領主の黒田家の菩提寺である能仁寺を参拝しました。藩主の菩提寺だけあって、さすがに境内は大きく、いくつものお堂が立っています。奥に入っていくと、飯能戦争という標識が立っていて、ここで最後の戊辰戦争が行われたという。戦いで能仁寺を含めて4つの寺や神社が燃えました。遺っていればと思うと非常に残念。

 寺を横切って山頂へ向かう。頂上の手前の道を横に入っていくと、岩が露出した山肌になり、そこに16体の石仏が安置されていました。羅漢像といわれ、5代将軍綱吉の病気平癒にお寺が貢献したので、綱吉の母が寄進したものです。天覧山は標高は195メートルしかありませんが、季節によっていろいろな花が咲き乱れます。今は花と花と境目の時期で、あまり花は見当たりません。しかし、頂上から見渡す景色が最高です。眼下は飯能市が、遠くは秩父の山々、富士山、東京のビル群が一望できます。確かに明治天皇がここから近衛兵の軍事演習をご覧になれたということもうなづけます。それで天覧山という名前も付けられたという。また、周りは緑でうっそうとしているので憩うことができ、長く居ても飽きさせません。

頂上に至る階段

岩壁に安置されている羅漢像

頂上から眼下に見える飯能市

頂上付近に群生しているオトコヨウゾメ

 帰りに市立博物館に立ち寄る。飯能市の歴史を学ぶことができ、新しい発見がありました。飯能戦争は、この戦いの頭目渋沢成一郎です。昨年のNHK大河ドラマの主人公、渋沢栄一のいとこです。幕府側が官軍に対して最後の戦いを挑んだ。四百名ぐらいの手勢なので、半日で勝負がつく。成一郎は栄一と同じ一橋家の家臣です。幕府の存続のために、主君に忠義を尽くすために一命をかけました。彼らの師であって、同じ家系の尾高惇忠も、義理の息子平九郎もその軍の中にいました。渋沢家がこの飯能の地にこんなに因縁があったことに驚く。彼らは最後まで戦いましたが、その後、明治新政府に用いられ、養蚕の事業に打ち込みました。惇忠は富岡製糸場の初代工場長になり、成一郎は渋沢商店を創り、生糸売込み問屋を営みました。これは、飯能が江戸時代から養蚕事業が盛んであったことと一致する。運命のつながりを感じさせられます。彼らの幕府に対する忠義が明治新政府に対する忠義に転換したのでしょう。

戊辰戦争の本陣となった能仁寺

天覧山の手入れされている森

飯能河原にかかる割岩橋

5月初旬に山を蔽いつくした飯能ツツジ

 もう一つの飯能の江戸時代からの産業は林業です。台地と山地の境目に位置する飯能は山から収穫する木材の集積地に最適な場所です。昔から江戸は火事が多く、木材が大量に必要とされていました。江戸からの距離も近く、秩父山中から川が流れ、入間川、荒川と江戸に直接、水でつながっています。これを利用して、木材の運搬は筏にして江戸に送りました。この地域の気候も比較的温暖で降雨量もあり、地質が杉、ヒノキの育成に向いています。それで、江戸から明治、昭和にかけて飯能は関東一円の木材の集積、販売の中心地となりました。西川材として品質も定着してきました。関東大震災や多くの災害に木材を提供して貢献してきました。

 しかしながら、現在、林業と織物業は曲がり角に来ています。木材は建材の利用が少なくなってきている。木材はきめが細かく、きれいなので、これから質が良いのをブランドにした家具や調度品、小物づくりに転換しようとしています。織物も伝統的工芸品などで活路を見出そうとしています。帰り道は赤く丸くカーブした橋をわたり飯能河原に下りてみました。大勢の若者が長くて大きなテントを河原に沿って張り、明かりをつけて賑やかにキャンプをしていました。飯能は入間川に沿って加治丘陵、狭山丘陵をめぐる沢山のハイキングコースがある。市も自然や川を利用しての観光にも力を入れようとしています。これからどうなるのか、衰え行く地場産業の復興を願いながら、帰路につく。